あなたとわたし

文章の統一感がありません。セルフツッコミは通常営業。

(本編)共感嫌いのツイ廃という共感されなさそうな形式のはなし。

(次記事のきっかけ編としての)最近の私のはなし。 - あなたとわたし

さて、前記事(上記きっかけ編)から読んでくださった方も面倒ですっ飛ばした方もどちらでも大歓迎。

 

ともかく私はYouTubeで何か動画を視聴しようとしたものの観たいものが見つからず、なぜそうなのか考えてみたくなったのだ。

負荷のかからない思考を望んでいたのだから、結果論これで問題ないであろう。

 

なぜYouTubeを観たくならないのか を考えるにあたり、観たくならないジャンルに絞って(今はともかく基本)観たくなる媒体であるテレビと比較してみることにした。

すると気付いたのがこれだ。

 

YouTubeにアップされ(私のおすすめに表示され)ている動画には、議論がなされているものが少ない!!!!

 

私は基本的に自分と意見が合う合わない問わず色々なものを拾ってきて自分の意見をより自分に合うものに変える又は強固にしていくスタンスで情報収集するんですよ。

で、かつ逆の意見を分かれて平和でいるのではなくわざわざ議論する様がとてつもなく好きなんです。

だけどYouTubeの形式上個人又は意見の合うひとつの団体がチャンネルを持ち発信をしているケースがおそらく多く、私の望むような一方的ではなく両面,多面的な議論がなされているものが少ないのだろう。

もちろんそういったことをしているチャンネルだってあるのだろうし私に勧められないだけで実はかなり多くあるのかもしれない。

なんせ全くもって興味がないどころか嫌悪感すら抱く広告を付けてきやがる人工知能のやることだ。(数十年後に殺されるわたし)(某ワニ的な????)

 

さらにそれを考えたことで、もうひとつ「自分の考え方」について気付いた点がある。

それは「個人ではなく複数人による共感でできている主張を、例え自分個人的に大賛成の内容でも受け入れることが苦手である」ということ。

 

YouTubeでもTwitterでもなんでも、ひとつ主張をすることでコメントやらリプライやらが付くその内容は、友人同士でない限り共感又は批判であろう。

ただの反論ならわざわざ知り合いでもない自分と真逆の意見をしている人間に喧嘩ふっかけないでしょ。

 

その共感による力が嫌いだ。

内容が良いか悪いか合うか合わないかではなくあくまで形式として、とにかく嫌いだ。

 

そう思うに至った理由はおそらく「集団の輪を乱すから」「みんなと違うから」ということにより自分が正しいと思っている行いを、自分が所属していた団体に否定されたからだ。

おそらく「自分は別に違ってもいいと思うけどなあ」って人もいたのだろう、だけどそれを公にする人はいなかった。やっといた!と思ったらあとからなんだかんだ否定側に行ってしまった。

私自身にだって非はある というか原因はあるのだろうが、んなこた知らねえ。孤独感は私史上最大の傷だ。

 

そういうことで(伝わったんだろうか)、どれだけ理性的に社会的に考えて正しいことを言ってようがそれが複数人により反論は聞かないテイでの主張ならとことん嫌悪するようになった。

 

だから、こんなこといっちゃそういう反応をくださった方に迷惑と言っているようで申し訳ないが(決してそうではない)特に強い表現での主義主張自発ツイートに対して共感するリプライが届くのが少し苦手だ。

自分の発したものになら同意見なのでまだ「これを見た逆意見の人が集団共感圧(とは)で苦しんでいないだろうか」と思うくらいだが、先日の、うん、まあ、なんやかんやあったタイムラインでの「〜と思う(私には湧かなかった思い)」ツイートに「わかる」「それな」みたいなリプライが付いていくのが、とにかく精神的にキツかった。

もちろん自衛すればいいだけのことなのに、何かしら傷付くと情報収集して防御or反論するのが癖になっておりいつも以上にフォロー外のリプライやいいね欄を覗いた私自身のせいなのでそれに気を遣えなどと言うつもりは無いが、本当に、しんどかった。

 

又、もう少し踏み込んだところまで言ってしまうと、出された結論の説明文に、結論と逆の意見を考慮する議論がなされたことを示唆する内容が無ければそれに対しても自分に合う合わない以前に拒否反応を示してしまい苦しくなる。ツイートでもブログでもどこぞの公式発表でも、YouTubeの件と同じで自分の中でそれに議論すればいいだけ、とはどうしても思えないのだ。

 

普段わざと自分と違う意見も入れることで心を保っている最善だと思った習慣がこんなにも毒となるとは、経験不足を実感した。

次こんなことがあれば遠慮なく見たくないものは見ないようにしよう、と思えるほど情報収集癖が薄くなる気はしない。

 

が、またひとつ自分を知れた。

自分を他人に作られた箱の中の人間としてではなく、自分を自分という一個体として知れた。

(ここへの固執の話はし始めるとブラックホールなのでやめておこう)

 

やはり学びは生そのものである。

しかし楽しいことから学べるに越したことはないのだ。

なぜ我々は苦しみから多くを学ぶのだろうか。

また学びたい課題ができてしまった。