NEVERLAND非国民扱いされそうだけど、それでも私は「生きろ」が苦手
なぜこのタイミングでこの曲の話をするかは書かないでおく。きっと皆さんお分かりになるだろうし、説明によりエゴサーチにひっかかって本人に見られるなんてことはあってほしくないので。
それでも、マイナスな話なんてしなきゃいいのにという意見もあることを承知で、しかしながら私の中に生まれてしまった感情がたとえ悪であってもそれを表に出さないほうが私の中での悪となるため、自らの正のためにあえてここに書くことにする。
「生きろ」
この曲が、せめて歌詞そのままでタイトルだけ違えば印象的なフレーズとして受け流せたかもしれない。
発表するタイミングがあのタイミングでなく、ファンの間での思い入れが強すぎることがなければドラマ主題歌としてポジティブに聴けたかもしれない。
2018年8月11日もしくは12日、味の素スタジアムの中に入れさえすれば、なんなら私にとっても特別な曲になっていたかもしれない。
何度好きになろうとしただろうか。
何度好きになれない自分を怨んだだろうか。
この曲に思いを込めて歌っている4人は、素敵だなあと思う。
4人が4人のために歌っていればいいのに、ファンも、つまり自分も入れられると、途端に息ができなくなる。
まとまりがないが、一昨日をきっかけになぜこんなにこの曲が好きになれないどころか嫌悪感すら感じるのかを考えてみたので、語弊がないよう長々と、誰も興味のないトラウマ話をしよう。
「死にたい」そう日常的に思うようになって、もう10年弱といったところだろうか。
人生の約半分の期間の、ずっとではないがかなりの割合を「死にたい」ベースに生きてきた。
書いていてあまりの矛盾に笑ってしまうが、「死にたい」という感情がいつしか生きていく上で必要不可欠なアイデンティティと化してしまった。
最初に思ったのは孤独感に耐えきれず、だったんだろう。
「死にたい」
そう口にすると大抵の人はこう言う。
「簡単にそんなこというな!」
「生きたいと思っていても生きられない人だっているんだから」
「生きなさい」
「生きろ」
しかし私の周りでこう言った人たちは、私が死にたいと思うほどに苦しんでいる理由が何かには目もくれず、具体的な解決策を提示することなく、生きることの尊さを説く自分に酔っていた。
どころかそう言いつつ私の心を破壊した奴もいた。
今考えれば当たり前のこととも思えるが、結局私は私自身で私を救うしかなかった。
そこで私は、生きようとすることを賛美し、私の「死」という選択肢を嘲笑った人たちを仮想敵としてしまった。
これは今振り返ってみてわかったことで、あくまで無意識的にしてしまった。
命の大切さ?糞食らえ!私が生きて味わう苦しみは私にしか背負えないのに、お前らのほうこそ「簡単に」生きていろ などと言うなよ。
そもそも死にたいと思って何が悪い?死んだあと地獄に落ちようがどうなろうが知らねえよ死んで脳が動かなくなれば意識などという概念は消え、肉はただの肉となりここは日本だし燃やされ灰になり田舎の高知の山奥の墓に入れられるただそれだけだ。
せめで死ぬときになるべく迷惑をかけることのないようにはするし葬式費用やらは稼いで残してから死んでいくよ。親が悲しむ?んなこた知らねえ勝手に産んだのてめえだろ。
とまあこんな形でありとあらゆる命の美しさ家族愛等々をぶちのめす形で私なりに生きてきたのだ。
だからこそ、である。
「生きろ」
そう言われて真っ先に浮かぶのは仮想敵だ。
そう言っておいて何もしてくれなかった人たちだ。
だから、これから先ずっと とまでは言わないが、しばらくはこの曲を好きになれない気がする。
死にたくて何が悪い?卍卍卍 的な生き方をやめられるときが早く来ればいいのにと他人事のように思う。